なんかもうちょっと飽きた若干の燃えつきもあって書くモチベーションが出なかったので放置していましたが、言った手前ちゃんと完結しとこうと。
おさらい。
生意気な学生時代を過ごし・・・
働くことのありがたみを知った新屋。
そんな新屋は地元三重で果たしてうまくいくのでしょうか。
三重にUターン就職すべくリサーチ
大阪で妊活してたがすぐにはうまくいかず、有名な病院に通ったりもした。
妻曰く「ここ(大阪)ではできへん気がする」と。予知能力者かよ。
まあでも環境はあるよねーと。「いずれ地元で」という気持ちはあったので、いい区切りかなと思い三重で働くとこを探す。
三重の鍼灸事情はよくわからなかったが、就職先を探すに当たって意識していたこと。
・新しい組織
・若手が活躍している組織
がいいなあと思っていた。長くやっていて「師匠的な人」がいるところはなんというかトラウマやだなあと。
臨床たくさんできて、同世代の人たちと高めあっていけるようなところが理想だった。
前職の病院では、僕に一番近い年齢の施術者は43くらいの人だったので。
専門同期の子が働いてた巨大な接骨院グループなんかも候補にあった。しかしそこは(そこはというか接骨院業界全体に言えることだけど)「接骨院」なので、鍼灸師はどう頑張っても柔整師の上にはいけないんだと。格差がすごいと。
秋口くらいに次の春で退職すると病院の院長に伝えて、三重の職場を探していた。
すると11月に家の近所のイオンが改装するタイミングで鍼灸接骨院ができたと。
そこのブログ(オーナーが書いていた)を読んでて「おもしろい人だなあ」と思い、さらにそこにいた施術者3名は全員20代。しかも院長は鍼灸師だった。
三重でこの環境は絶対に他にないな、と思い年末の帰省に合わせて治療を受けに行った。
この時担当してくれたO氏の治療に対して思う所は特になかったが、院内綺麗だしいいなあと思ったので面接を申し込んだ。
ブログにあった求人問い合わせフォームから連絡入れても音沙汰がなかった時は諦めかけたが、ダメ元で電話してみたら普通に気付いてもらえてなかっただけだった。笑
こもの鍼灸院の謎のフィクサーと噂されているオーナーとの出会い
面接に行った。
なんだか見覚えがある人だった。
でも確証がなく話を進めてたらやはり同じ専門学校だった。
オーナーは「思ってることはっきり言う人だなあ」という印象。裏表がなさそう。そして年齢よりずっと若い。
歯に衣着せぬ感じはブログでもなんとなく感じてたことなので、やはりおもしろいなあと。こわいけど。
面接の結果、4月から晴れて入社できることとなった。
菰野鍼灸接骨院、始動
同期に鍼灸師と柔整師の新卒オーバーエイジ組が一人ずついた。
僕はもともといた3人の施術者のうちの鍼灸師の1人が地元(東京)で開業するとかで、その後任枠的な感じだった。
11月からオープンしていた院は4月頃にはそれなりに来院もあり、すぐに治療に入った。前任の人は人気があったらしく、それを引き継いだ僕はありがたいことに最初から忙しくさせてもらった。
菰野鍼灸接骨院、終了
書きたいことはいろいろあるが、僕を含め登場人物がクソ人間しかいないので誰も気分が良くならないため割愛。
ひらたく言えば、空中分解、試合終了である。
最初にいた立ち上げメンバーは1年を待たずして全員辞め(!)入って半年もせず暫定的に院長に就任した。別にめでたくはない。
その後もなにもかもまったくうまくいかず、2013年から2年と少しの歴史に幕を閉じた菰野鍼灸接骨院。
救いがあるとすれば、もうダメかな、という時期だった2015年10月頃に入ってきてくれた若い女性鍼灸師がいたことだ。
接骨院業務の廃止⇒自費移行
昨今、治療院業界では「自費移行」がトレンドだ。いやもはや遅いくらいだけど。
当時はまだまだ自費移行で成功している院はちらほらしかなかった。
普通は自費移行と言えば、保険中心の診療から徐々に自費メニューを導入していって最終的にそっちがメインになるという流れだ。
だがうちは違う。
もう3月から完全自費になります!てか接骨院やめます!
なのである。2015年末に告知した。
経緯は色々あるが、死んだ魚のような目でしか語れない。当時の患者さんには本当に不義理をしたなあと思うけど、仕方なかったのだ。
聞きたい人は会った時に直接聞いてね。
完全自費の美容・不妊の専門院への転換
不安しかない。
接骨院では窓口で数百円しかもらわない。他に比べて比較的自費を取っていたとは言え、3000円を超える支払いなどほとんどなかった。
それがいきなり5000円くらいの単価でスタートするわけだ。
さらに付け加えれば僕自身に「美容感」はまったくない。
が、前述した女性鍼灸師の樋口は前職がエステサロンだった為、その存在が美容路線への転換を大きく後押しした。
転換前は施術者5人、受付診療補助5人と大所帯だった。
それがいきなり2人でのスタート。
いきなり高単価。
その前身の組織は空中分解。
不安しかない。
でも、やるしかない。
そんな不退転の気持ちが功を奏したのか、転換初月から二人とも最高益を出した。
お互いやることが明確なので「めちゃくちゃ忙しいけどノンストレス」な感じで働けた。
徐々にコンビとして機能し始め、業務は円滑になっていき、環境も整っていき、業績も維持。樋口が覚醒した。
28の僕とまだ去年卒業したばかりの22歳の女の子の二人で物販無しで自費移行初月200万売るわけですよ。
同業以外の方にはピンとこないでしょうが。これは奇跡。
そんな中、
もうやるからにはいくとこまでいくぞ
とKAMIKAZE状態になっていたオーナーと僕は、3月のリニューアルオープンの時点で
「年内名古屋進出」を画策していた。
正気の沙汰じゃない
そのプロジェクトはこの激務のさなか進んでいった。
こもの鍼灸院 栄 オープンまで
名古屋進出計画は、業者の選定からコンセプト、物件から内装にいたるまで全て僕に任せてもらえた。こんなありがたいことはない。ないがめっちゃ忙しい。めっちゃ。
予約は軽く今の2倍以上の詰め方で取っていたし、雑務量は想像を絶するほど多くなっていた。
そんな中での新規出店計画。
HPやペーパーアイテム、メニュー構成や備品揃え、PR戦略や告知、複数業者や保健所との打合せ。
聖徳太子もビックリのマルチタスクの鬼になっていたころ、新屋の目は徐々にみえなくなった。結膜炎が悪化して角膜炎になり、視界が白く濁って視力が著しく下がった。
追い打ち。勘弁。PCもスマホも画面10cmくらい近づかないと見えない。
ピンチ。控えめに言って絶体絶命。
物件が決まり、施工が始まり、オープン日を決めた。
決めた。が、
スタッフは二人。
正気の沙汰じゃない。
見切り発車にも程があるが、もう風になっているので仕方ない。
そんなころ、出身校の先生からの紹介で名古屋在住の女性鍼灸師が面接に。
のちにこの時の子が逸材マキ・オカダとなることはまだ誰も知らない。
とりあえず名古屋の人材を一人確保したものの、
2店舗を3人(うち二人ほぼ新卒)
これを無謀と言わずしてなんと言おうか。
そしてその2店舗のトップに立つのはかつて組織を空中分解させた張本人、その人である。
とか言ってた9月。なんと
樋口が入院、3週間離脱
悲劇。施術デビュー前の岡田と二人、まさに捨てられた子犬の心境である。
負担かけすぎたかな・・・と自責。
しかしここで岡田120%の頑張りもあり、結果として自信を持って栄オープンに挑むきっかけになった。
こもの鍼灸院栄グランドオープン!
樋口も無事帰還し(帰ってきてすぐかもしかマラソン走ってた超人)、押し寄せる家具の組み立てもなんとか片付いた。(新屋の人力でつくったんですよ家具たち)
たくさんの関係各位の皆様をお招きしてレセプションパーティーを開催しました。
自分の人生において、ああいうパーティーを主催する日がくるとは夢にも思ってなかった。
スタッフもなんか増えてた。オープンまでに。各自のエピソードは【外伝】で。
たくさんの方の支えというものが目に見える形で。この時目は見えてないけど。ほぼ。
とてもありがたかった。
オーナーはというと、レセプション前の朝に院の様子をジャージ姿でちょっと見に来て帰ったっきり、その後現在に至るまで一度も栄院に訪れていない。
もう都市伝説である。ちょっとしたホラーの語り口。
我が物顔でパーティーなんぞ開いているので僕の事を経営者だと思っている方が多いが、僕はただの現場運営者だ。
その辺のスタンスについて詳しくはまた別の記事で。
こうしてこもの鍼灸院は
廃業の危機から自費移行、分院展開
という冗談のような1年を過ごした。
これがフィクサーの描いた展開だったのかもしれない。
なにはともあれ、こんな経験二度とできないので本当に成長の機会だったなあと振り返って思う。
空中分解の立役者だった新屋がどのように成長し、組織をつくっていったのか。
それもまたいつか。
今では鍼灸師8人、二院合わせて月の新患150~180人という院になった。なったというか、栄院は開院初月150くらい。
平均年齢25歳は相変わらず。
毎月求人応募は絶えない。
そんなこもの鍼灸院。今後どうなっていくのか。
ご注目あれ。