すごいチョコを見つけた。(いきなり関係ない)
チョコおたくのTwitterなるものを見つけて、ひたすらにチョコのコンテンツことが書いてあって、はーこんな世界があるんだなと感服してて。
カデカワさん
そもそも普段甘いもの好んで食べない上に別段チョコが好きってわけでもないし、なおかつホワイトチョコってあまり製品によっての差を感じたことがなかったんだけども。んだけども。
ショコラマダガスカルのホワイトチョコとやらがめちゃ美味しいのです…普段ホワイトチョコ毛嫌いしてるんだけど。 pic.twitter.com/lgCpSpEvpm
— ハヤカワ五味 (@hayakawagomi) 2017年10月4日
このツイートを見て共感とともに非常に気になって気になって無性に食べたくなり・・・
即ポチりました。なぜなら僕はプライム会員だからねッ!(うるせーよ)
即届く。
欲しいものが、思い立って、その場に座ったまま、即届く。
なぜなら僕は。
プライム会員だからねッ!!
すごい時代だ。
ショコラマダガスカルのホワイトチョコ。
輸入スーパーとかにもたまにあるみたいです。
シャレてます。パッケージからして。
スタッフと一緒に食べてみました。
う、うまい・・・!!
まずあのホワイトチョコ特有の変な味がしない。乳臭みというか。なんかあの科学的な感じのヤな味ね。それが一切ない。
そして、くちどけ、なめらか。
瞬間、こころ、かさねて。
上品なバニラビーンズの香りが抜ける、贅沢な味わい。
甘みもほどよく。
今まで食ってたのはホワイトチョコじゃねえな
そう思えるチョコでした。
いいからとりあえず食ってみればいいさ。
ふー。今日もいい記事書いた!ではまた!
改めまして、チョコブロガーの新屋です。
本日は
こちらの続きです。はりきってどうぞ。
専門学校入学
名古屋の千種にあるトライデントスポーツという学校でした。
中学からの『勉強しないグセ』は健在でしたが、全員同じスタートからだったので授業内容は難なくスルスルと習得することができました。
ある分野を除いては。
東洋医学は宗教だ!
生意気な子どもの典型な「理屈屋」だった僕は、科学的には説明のつかないことの多い東洋医学が大嫌いでした。
それもそのはず、他のみんなと違って感動エピソードのある「鍼灸ファン」じゃないから。
一般の方の抱く「気」や「ツボ」などへの胡散臭さを普通に抱いていた上に、取っつきやすい西洋医学の理論武装がより東洋医学嫌いに拍車をかけた。
「東洋医学なんて宗教だ。占いとかと一緒だ。」なんて思っていた。
青い。青臭いぞ当時のオレ。
とはいえ、嫌いながらもソツなくこなし、迎えた国家試験。
卒試まで全ての試験を特に困ることなくパスしてしまったので、またも完全にナメていた。
さらに、在学中に鍼灸師として憧れる存在に出会うこともなく(トレーナーはたくさんいた)3年の間にだんだん「鍼灸師になりたい」という思いは薄れていった。
むしろ、鍼灸師って世間から見て非常識な存在なのでは?とすら思えていた。変わった仕事がしたいからとか自分で言ってたくせにですよ。
高校入学後に敗北を知ったものの、受験に失敗したことがなかった僕はまたも慢心。
なんとほぼそのままナチュラルに受験の日を迎えた。
本当の挫折を知った
それでもまさか自分が合格率70%とも言われる試験を落とすとは思ってもみなかった。
ダイジョーブ博士で成功率10%なら迷わずトライするこの私がである。
たった2問足りなかっただけだった。
そもそも合格したとしても「鍼灸師になりたくないなー」と思っていた僕は完全にやる気を失った。
自分探しとかいう都市伝説をホントにやる男、新屋翼
卒業後は専門1年の時からやっていた高校サッカーのトレーナーも板についてきた頃で、本来の夢である「スポーツに関わる」ことができており、やりがいもあり別段不満もなかった。
学生時代から続けていた飲食店でのバイトの傍らで
「本当に自分に向いていることはなんなのか?」
といっそ色んな仕事をやってみることにした。ダブルワーク生活の始まりであった。
工場やイベント会社、キャンペーン屋、引っ越し屋などなど。
イベントスタッフではブレイク直前のA〇Bの楽屋前警備をした時に前田の〇っちゃんに塩対応されたのがいい思い出だ。
ほとんどの仕事は全く楽しくなくただ時間が過ぎるのを待つ日々だったし、そこで働く人たちと関わることすら苦痛だった。
そんな中で「あ、天職かも」と思うものに出会った。大手家電量販店の販売員だ。
携帯電話を担当していたんだけど、なぜこんなに売れるんだろうと自分でも思ったくらいよく売れた。実際楽しかったし。
しかし、この時ある強い感情に襲われた。
「楽しいし向いているかもしれない。でもそれを一生続けていくライフワークにしたいのか?それが本当に自分にしかできないことか?」
再度立ち向かう決断
やはりどう考えても「普通の仕事でサラリーマンをする自分」というものを想像できなかった。
はたから見たら色んな職を転々としている汚い履歴書を全く気にしていなかったのも、思えばずっと「鍼灸師にいずれなるんだろうな」という気持ちがあったからなのかもしれない。
一念発起。二度目の合格率は2割くらいと言われる再受験に2年ほどあけてトライ。
トライするにあたって、腹をくくる為にも鍼灸院で働くことにした。いわゆる修行である。
意外かもしれないが、鍼灸の激戦区といえば大阪だ。
大阪の鍼灸整骨院に知人のツテで勉強しながら働かせてもらうことになった。
控えめに言って地獄
はじめての一人暮らし
はじめての鍼灸整骨院
はじめての大阪
はじめて尽くしのチェリーボーイ状態な新屋は不安と楽しみが6対4くらいだった。
週6ではたらくことや朝から深夜まで働くことは慣れっこだったので覚悟できていた。
家事も一通りできる男・新屋は一人暮らしも不安はない。
が。
大阪の下町中の下町だった新天地でまず驚いたのは「人」だ。
僕の生まれ育った三重県は関西弁の部類に入る言葉を操り、全国的に見たら近畿地方だ。(三重県民の複雑なアイデンティティについてはまたいつか)
なので「文化圏は似たような感じ」と思っていた時が私にもありました。
ディープ大阪の住人はレベルが違った。出会ったことのないような人種にかこまれ、もちろん新屋はマイノリティ。
そして当時のその院のメイン層は年配層。
幼いころに祖父母を亡くしていた新屋は「おじいちゃんおばあちゃん」という存在への免疫が皆無だった。扱い方がまったくわからないのだ。
それに加えて大阪人。もはや宇宙人である。
それなりに喋れるおもしろ関西系三重人だと自覚していたが、そんなプライドは2日ともたなかった。
まあここまではいい。問題はもっと深刻なところにあった。
待遇面、そうお金だ。
鍼灸整骨院という業界についてはまたいつか記事にしようと思うが、一般的な感覚に合わせて言うとするなら「ブラック企業」が標準といって差し支えない。もちろん全ての院がそうではない。あくまで一般論だ。
それに加えて「徒弟制度」も残っている業界である。落語家かよ。
なぜこの話をしたのかというと、そう、そこがそうだったからだ。
- 週6勤務朝8時~夜10時くらいまで
- 毎日4時間分の課題
- 徒弟制度
- 福利厚生なし
電通である。
徒弟制度といえば聞こえはいいが、衣食住は普通に自分で用意した。
条件などの話を聞かずに勢いで大阪行きを決めた自分がバカだが、一応社会人を経験した身。
そして21世紀の世の中だ。
いくら待遇が悪くても「最低賃金」はもらえるだろう、なんて思っていた。
契約のけの字もないまま1ヶ月が過ぎた頃に事件は起こった。
封筒手渡しで給料をもらった。
慣れない環境で辛いなりに頑張って得た初めての対価だ。ありがとうございます!と深々と頭を下げ中身を確認すると、なぜ自分が頭を下げたのかがわからなくなった。
8万5千円だった。
「これはきっと締め日をまたいで入ってきたから、半月分なんだ。てことは17万か、おもってたよりいいなあ」と信じることでしか自分を保てなかった。
仕事はというと、師匠はいわゆる生まれ持ってのストイックの塊のような人で、自分のやっていることは普通。やって当たり前という感じの人だった。
仕事の出来る出来ないに関わらず罵倒され詰められる日々。はじめて人に抱いた恐怖。寝ずに課題をこなす。褒められることなどない。毎日がエブリデイである。
消耗した体力と精神から怒られたくないがために誤魔化したことを守るためのウソをついたりしていた。当然そのウソもすぐにバレさらに怒られるというスパイラル。
自分の人間性というものが完全に崩壊していた。
能力?そんなものは自分にはない。そう思わされた。
そしてちぎれそうな胃をだましだまし働いて翌月。
8万5千円だった。
なにかの冗談かと思った。
もうこの時点で師匠に対して口を開くことすらビクビクしていたが、さすがに生活できないと思い振り絞って言葉を出した。
「こ、この給料はいつまでですか…?」
ジロリと見られ「3カ月は試用期間や。とりあえず勉強しーや。」といわれた。
来月もこの給料なことが確定したので、なんとか生活する方法を考えた。
貯金などほぼなかったので、このままでは持って数ヶ月だ。
奨学金の返済を止めてもらい、役所へ行き国保料の軽減や年金の支払いを免除してもらった。
まさか自分がワーキングプアの為の特別措置を受けることになるとは。
自分の人生でも1,2を争うほど物凄く惨めで情けない体験だった。
車も売ったがローンは残り、生活費を払うと赤字だった。
まったくスキマ時間がない生活だったが、そうも言ってられないのでバイトの面接にいった。
誰でも受かると噂の牛丼チェーンの面接に落ちた。
思えば後にも先にも面接に落ちたのはここだけだった。
バイトもできない。なにせ働く時間がないからだ。
いよいよもうどうにもならなくなってきた。書いてて動悸がしてきた。
そんな中なんとか3ヶ月目を乗り切り、迎えた4ヶ月目の給料日。
8万8千円だった。
自分の中で何かが音を立てて崩れた。大きい機械が停止するような感覚だった。
何も言えなかった。
何も言えなかったが、夜逃げのように荷物をまとめた。
締めは一人でやっていたのだ。
翌日の朝に考えただけで吐きそうになる、押し寄せてくるような恐怖心を抑え込んで
「辞めさせてください」と伝えた。
悟ったような顔で
師「いつや」
新「今日です」
師「おまえなあ…」
新「もう、生活ができません。今月の家賃も払えません。今からバイトしないと間に合いません」
師「荷物ないな、とは思ったけど…。いくらいるんや?」
新「〇円ですけどもうこれから毎月のことなのでもう無理です。無理なんです。」
師「資格取ったら給料もつける。今はまだなにもできへんやないか。試験通るまで待て。」
なんて押し問答が続いた。
続いたが、これを言う段階でもう後戻りできないほどには精神が崩壊していた。
もう何を言われても涙ながらに「辞めさせてくれ」の一点張り。
いろいろ言ってくれたが、逃げるように院を後にした。
今思えば、とても気にかけてくれていたんだなと思えるが、その時はもうそんなこと感じる余裕も感受性も持ち合わせていなかった。
この経験が後になって非常に活きたとは思っているけど。
再度!国家試験!
実家の方でまとまった仕事をしたりして食いつなぎながら国家試験を受けた。
あの時より辛い状況など絶対にないと断言できたので、やるべきこともハッキリしていたし不思議と不安もなかった。
無事合格し、大阪の病院のリハビリ室の内定ももらった。
専門時代の友人に合格の報告をすると、後ろの席に座っていたなんでもハッキリ言う女の子から
「ホントよかった。やっと言える。当時は勉強しないコイツが受かってたまるかって正直思ってたよ。だから落ちた時は当たり前だろって思ってたよ。でもホントによかった!」
ちょっと正直すぎる。
でも今の自分を考えたら、落ちてよかったなあと思ってもいる。
もう5000文字こえてくる気配なので(笑)次回にします。
いよいよ鍼灸師として働きだす新屋。資格と安定を手に入れた新屋の大阪ライフが再びはじまる…!
次回、鍼灸師&大阪新生活編!
はっきし言って、おもしろかっこいいぜ!(これわかる人いるのかな)
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