もはや「なぜ鍼灸師になったのか」などという話ではなく、学生時から今までのただの自分語りと化しているこの連作。これ需要あんのかよ。笑
前回まではこちら。
はい、2エントリー合わせて8000字の超大作。もはやなんだこれ。
エッセイかよ。色恋要素も絡めて自分とは対照的なライバル的キャラ登場させてドラマティックにしてやろうかよ。
長いので3行でまとめると、
高校生の時に特にドラマもなく鍼灸師になることを決意した少年新屋は世の中をなめきっていた。そのせいか、今まさに社会に出ようかという時に壮絶な挫折を味わう。国家試験再受験を無事にパスした青年新屋の新たな大阪ライフが、いまはじまる。
こんな感じ。てかこれで十分だ。
大阪ニューライフ
無事合格通知も受け取り、いよいよ新生活のスタートである。
大阪市の一番南あたりの個人病院だった。
内科~整形外科を診る、いわゆるかかりつけ医だ。
- 一般大卒初任給よりちょい少ない
- 社保・厚生年金あり
- 週休2日(日祝と木、土の午後)
- ボーナスあり
- 9:00~19:00勤務(13~15時昼休み)
一般社会人のみなさまはこれを見て普通に思うかもしれない。
しかし当時の僕からすれば超ウルトラ・ゴッド・オブ・ピュア・ホワイト企業Mk-Ⅱである。
こんな条件…そんな…ウソだろ…!?と働くまで疑っていた。
こんなにぬるくていいのだろうか、もはや冷えてないか、という感じだった。
実際あとから思えば、初日から施術に入らされたし鍼灸師は自分だけだったので研修もクソもなかったし来院数も非常に多いとこだったので、まあ差し引き普通ではあるんだけど当時の僕にとってはもう毎日がエブリデイだった。(またかよ)
大阪人の患者にも慣れ、日に日に鋭く研ぎ澄まされていくボケとツッコミのセンス。
早くなる会話のテンポ。
それでも想像の斜め上を突いてくる競艇帰りの大阪のおっちゃん。
毎日モーニングについてくるゆで卵を差し入れに持ってくるおっちゃん。
ネコの話をしていたはずがいつの間にか中東の国際情勢の話になっている展開力の異常なおばちゃん。
中でもおっちーというおっちゃんの「白い粉事件」は未だに話しながら笑えて涙が出てくるほどフレッシュな鉄板ネタである。
そんなこんなで新屋の笑いの能力は日を追うごとに増していった。(これなんの修行)
それでもって、
夏場なんてまだ日が出てるころに帰れる幸せ。
これでもって多くはないけどボーナスも出る。
家に帰ったら電気が点いててごはんがある。
なんという贅沢。
この時期から、3年付き合っていた彼女と同棲をはじめた。
思えばどう見ても最底辺の状況にいる男とよく付き合ってくれていたなと本当に思う。
仕事ができるオンナだった年上の彼女は、当時の僕よりも稼いでいた。笑
そんな頃、結婚を前提に同棲していた僕たちは結婚した。
高低差がちょっとすごすぎるけど、トントン拍子で人生が進んでいった。
結婚を機に大阪市の中心部に引っ越した。
いよいよもって
「オオサカ・シティライフ」のはじまりだ。
徒歩3分以内に4つコンビニがある。たぶん毎日違うとこに外食いける。
家出てすぐにファッションストリートがある。
あゝ憧れのシティライフ。
飽きもせず楽しい毎日だった。
印象的だったのが、毎年クリスマスイブ~クリスマスの夜~深夜にかけてを恋人達が過ごすことから「性の6時間」と呼ばれており、
その6時間を「セイヤ!」と叫びながら正拳突きをして過ごす(聖夜にちなんで)
というオタク男たちがアメ村の三角公園にいたことだ。
出典元http://michaelsan.livedoor.biz/archives/51513921.html?p=3
応援の気持ちでガリガリ君クリームシチュー味をたくさん差し入れた。
しっかし変わった人ばっかだったなあ大阪。
再度ダブルワーク生活スタート
そんなウソのようなホカホカ生活に逆に不安を覚え「もっと働かなくては」という強迫観念にかられ、バイトをさがした。
業務委託形式のアロマリンパのエステ店で夜と休日働き、接遇とエステ技術の習得・実践と自分の知識技術がどのくらい通用するのかという市場調査を兼ねる場数が踏めた。
どんな人に自分がウケて、どれくらい売上をつくれるのか。そんなことが体感できた。
また、特に女性にとっては医療の技術や知識だけじゃないアプローチの仕方があることを痛感した。
そしてこの時期に、国内でも最大級のファッションイベントにも施術スタッフとして参加でき、多くのモデルや芸能人の施術を経験できたのも大きな糧となった。
少しの修行期間と3年その病院で働いて
・ドクターや病院がどういう性質なのか
・患者は何を求めているのか
・働くということはどういうことか
・自分という人間の市場価値
というものがある程度把握できたような気がした。
また、師と呼べる人がいなかったので技術的に教わることもなく、患者も一周したので新たな風が自分の中では吹かなくなっていた。
その分自分の考えで好きなように臨床ができたのは貴重な経験だった。
こどもも欲しいし「ああ、もう三重かえろ」っとなった。
次回!(もういいだろ!)
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